日本のバブル不況とサブプライム不況

1985年9月ニューヨークのホテルで先進国5カ国蔵相と協議し、アメリカのドル高是正と各国の内需拡大政策で合意をみる(プラザ合意)。1ドルが240円前後だった円が120円前後の円高になる。たちまち日本は円高不況になる。ただちに日銀は、5回も及ぶ公定歩合の引き下げを続け、2.5%にまで引き下げた。これにより、資金の流動性が発生し、金融機関から低利の融資を受けた企業は、余剰資金でこことばかりに財テクに走り始める。世界各国から債権大国として脚光を浴び東京の金融マーケットへの進出が高まりを見せる。東京のオフィス床面積の不足からビル需要が起き、地上げによる地価高騰は商業地に始まり住宅地へと広がった。そしてお金は株式であり土地であり、絵画などの美術品やゴルフ会員権に向かった。政府は、日銀公定歩合を89年5月から1年間で2.5%から6%に引き上げた。また金融機関の不動産業者向け融資の総量規制、地価税の創設、固定資産の課税強化、土地取引きの届け出制、特別土地保有税の見直しなどの対策をした。これにより株価や地価が下落に向かいバブルが弾ける。
90年後半から世界金余りは、米国債投資を中心にアメリカに流れ込み、アメリカの金利低下、株高を招き、だぶついた資金は住宅投資に向かい、住宅価格は右肩上がりにあがり、住宅ローンを組む人を増えていく。プライム層(優遇金利適用の信用力のある層)だけでなく、サブプライム層(低所得、ローンの延滞歴)に貸付をした。しかし住宅価格が上がり続けていけば問題がなかったが、アメリカ金融当局は、同時多発テロ事件の後遺症から景気も立ち直り、インフレ懸念が出始めたことにより金融引き締めに転換する。04年後半から1%の金利から06年半まで5.25%に戻した。そのために住宅価格は05年後半から値下がりし、ローンの焦げ付きも目立ち始める。住宅債権はモーゲージ市場で債権化されており、それを組み込んで再証券化するなどで世界中にこの金融商品が広がってしまった。あまりに複雑構造で損失の規模が判明しずらく、世界中の金融市場に信用不安を起こさせた。どちらも公定歩合の引き上げによるさじ加減で起こったことである。